万雷の拍手


「自由は死んだ。万雷の拍手の中で」 パドメ・ネイベリー・アミダラ
"This is how liberty dies. With thunderous applause."

マスコミの世論調査を見ると、信じがたいことなのだが、衆議院選挙は自民党が圧勝しそうな予想が報じられている。パルパティーンギレン・ザビクラスの政治家が党内に居ないことは、もちろん承知しているつもりだが、パドメの台詞は今そのまま当てはまる。忘れてはいけないのは、彼等が政権奪回後に何を目論んでいるかである。

マスコミが取り上げない自民党憲法改正草案。
http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

簡単に言ってしまえば、現行憲法の骨髄だった平和の理念と、表現や集会や結社の自由、誰もが個人として尊重される基本的人権を「著しく」後退させ、若者を兵隊に取り上げ政府に都合が悪い言論を弾圧できる、戦争の準備が周到に出来た国だ。自衛のためなら戦争を起こせる、という意味の一文まで9条に付け加えてある。国際世論が高まった20世紀以降、自衛のため以外に戦争が行われた事なんて、地球上にあったのだろうか?先制攻撃もいつだって自衛のために行われてきたはずだ。
 先進国を自称する国が、21世紀になって基本的人権を後退させる憲法を新たに作ろうとしているこの事実は、驚愕以外の何ものでもない。圧勝が予想されている自民党は3年前とは様変わりをした政党になっている。民主党がうまくいかなかったからって、雰囲気だけで今の自民党を支持するのは、本当に本当に危険である、と、しつこく訴えたい。

自民党憲法改正案の本質」
http://www.magazine9.jp/morinaga/120523/

自民党改憲案は「憲法の破棄」である。
http://documentary-campaign.blogspot.jp/2012/12/blog-post_10.html

自民党 日本国憲法改正草案対照表 2012版
http://www.geocities.jp/le_grand_concierge2/_geo_contents_/JaakuAmerika2/Jiminkenpo2012.htm

ロケットとミサイル

「もちろん一般の国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも同じです。政策を決めるのはその国の指導者です。そして国民は常に指導者の言いなりになるように仕向けられます。難しいことではない。われわれは他国から攻撃されかかっているのだと危機を煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。そして国を更なる危機に曝す。このやり方はどんな国でも有効です。」
ヘルマン・ゲーリングニュルンベルク国際軍事法廷での最終陳述より)

多くの国で「ロケット」と呼ばれているものも、私たちは押し並べてそれを「ミサイル」と呼ぶ。「ロケット」と呼んだら罰せられるかのように、マスコミはそろって「ミサイル」と呼ぶ。

自衛権の発動を妨げるものではない」
自民党は自分たちの憲法改正草案の第9条にそう付け加えた。

「自衛のために止むなし」
すべて戦争は自衛から始まる。

イスラエル


スターバックスコーヒーに行かない、と決めてから8年くらい経つけれど、なんだかんだでヤツらのシナモンロールをこの8年間に3個くらいは食べている。

IBMのCPUが搭載されたMacintoshを使わなくなった代わりに、
intelのCPUを搭載しているMacintoshを使うようになった。

仕事の現場でケータリングのコーヒーを飲みながら、キットカットを差し出されれば、ひょいひょい食べているしダノンのヨーグルトが朝食に出てくれば、ついつい食べてしまう。

自分の子供と同じような年齢のガザの子供たちが、瓦礫の中から遺体となって運び出される映像を、鳩尾を締め付けられながら見る。なぜこんなひどい事が起こるのだろうか。なぜこんなに人間は残酷になれるのだろうか。なぜこの暴挙と惨事を止められないのだろうか。

その3日後に、イスラエルコンテンポラリーダンスを世田谷に観に行った。舞台は素晴らしく開演から終演まで、僕は間違いなく幸せだった。

ダンスと空爆、全く無関係とは思わないし、それを無理矢理結びつけようとも思わない。ただなんとクソややこしい世界をクソみたいに生きているのだろうかと、餌を変えてから臭くて仕方ない家の猫のウンコを片付けながらクソ思った。

Genocidio Sionista Israelí Sobre el Pueblo Palestino - TODOS SOMOS PALESTINA 17-11-2012

あらためて

今日の国会議事堂前。寒い。
大人達の欺瞞の象徴のような原発が、私たちと共にある事に慣れてはいけないし、当たり前になってはいけない。大切なのは、休んでもいいから続けること。被曝している子供たち、故郷を奪われた人たちに、思いを馳せること。この期に及んで、まだ原発で金儲けしようとしている人たち、原発で核を正当化しようとしている人たちにも、思いを馳せること。その人たちが私たちと同じように、善良で凡庸で、権力に弱い陳腐な人たちであることを忘れないこと。
原発オスプレイもTPPも、誰かを犠牲にする事で成り立つ社会は要らない。だれかれ構わず一方的な競争原理に巻き込む世ではなく、弱者が弱者のまま、変人が変人のまま、生きていける世を目指す人に、僕は投票する。

集団疎開裁判

今日の官邸前は財務省上の福島集団疎開裁判の集会の前に。給食を食べない子どもに対して、他の子どもが「お前だけ病気にならないつもりか?」と詰った話が辛い。毎週金曜日に街頭で自分がどういう世界に生きているかを思い知らされる。
増税で巻き上げた復興予算を、被災地とは全く関係のない利権事業に使う、欺瞞に満ちた日本の大人たち。チェルノブイリの4倍高い放射線基準値の中で閉じ込められながら避難を望む親子を、その金で少しでも安全なところに疎開させるべきだと思う。
福島県郡山市の子供たちが、郡山市に対して起こした裁判。
http://fukusima-sokai.blogspot.jp/

まだまだやるらしい

この、何か出来の悪い冗談のような画像を見つめていると、
僕には不思議で不思議で仕方ないんですけど、

事故から18ヶ月が経った今でも、福島原発第一原発から
1日あたり2億4000万ベクレルの放射性セシウムが放出され、
二度と帰れないかもしれない故郷に思いを寄せながら、
不自由な避難生活をしている人たちが16万人もいて、
ざらしの4号機の使用済み核燃料プールが、ヘタすると
地球の半分を滅ぼすのではないかと世界中から非難され、
小さい子供を抱えた母親達が、新しい放射能安全神話のせいで、
不安や避難支援を口にする機会を封じられ、
猛毒の使用済み核燃料を、まだ見ぬ遠い子孫たちに押し付ける。

こんな世にほとほと愛想が尽きている、と思っていたのだけど、
このおっさん達は、まだまだ、なんとも思ってないらしい。

原発?もちろん、まだまだやるぜ!
さすが、これまで無責任に原発を推進してきた
中心人物たちは、考えてる事が違う。

今の民主党政権を支持するつもりは毛頭ないけど、
それでも、この無反省なおじさん達よりも、
まだマシだと思う。

でも、そんな自民党でも、維新の会に比べると、
それでもまだマシなような気がしてしまうのが、
いまの世の中、本気で恐ろしい。

<追記>
ちっともマシではなかった。安部晋三が総裁に選ばれて、同じかそれ以上に酷い政党になった。憲法改正をして、基本的人権を後退させ、いつでも戦争可能な、日本を戦前に戻そうとしている極右政権になった。

合理的に

何年も前の事だが、イスタンブールの大きなバザールの貴金属屋に、綺麗な模様のシルバーの指輪があったので、貴金属屋の兄ちゃんに値段を聞いた。「この模様はオスマン帝国特有の模様で、この銀は大変質の高い銀です。」そのバザールで売っている商品の殆どには値札がついておらず、買い手と売り手で値段を決める。65ドルから始まった値段交渉は15分程続き、最終的に7ドルになった。お金を払った後、貴金属屋の兄ちゃんの舎弟みたいなのが、トルコ名物のチャイを出してくれて、三人でお茶を飲み、家族の話なんかを少しした後、僕は店を出た。7ドルで買った指輪の銀が、質の高い銀かどうかはさておき、数年後に手袋を脱いだ瞬間に指から抜け落ち、ドブに落としてなくしてしまうまで、僕はその指輪を大切に指にはめていた。

こういう話をすると、必ず、その買物は得をした、損をした、と言う人が現れるけど、僕にとってはそれは損でも得でもなく、貴金属屋の兄ちゃんと僕と二人で真剣に決めた適正価格なのだ。キリムの店、ランプの店、靴下の店でも同じような長い交渉があり、夕方買物を終えた僕は、ヘトヘトになった。定価を表示しない物販はたいそう非合理に感じたし、こんなに時間とエネルギーを消費する非効率な売買では、経済発展なんか難しいだろう、なんて傲慢な日本人の僕は思ったものだが、持てる力を使い果たしたバザールでの買物は今でも楽しい思い出だ。最近のトルコの経済発展は目覚ましいと聞くけれど、あの貴金属屋の兄弟はどうしているだろうか?

この夏仕事で、北海道にロシア近隣諸国からサーカスグループを呼んでいた。その団長になってもらったマジシャンとは、最近頻繁に一緒に仕事をしていて、去年の11月、彼が日本に滞在中に、僕の2番目の子と10日違いで、45才の彼にも男の子が産まれた。今年はその0歳の男の子と奥さん、同じく出演者の二十歳の娘を連れて来日している。彼は公演の柱となる役どころを演じ、公演の合間は、奥さんと二十歳の娘と交代で赤ん坊の面倒を見ている。彼の赤ん坊に対する接し方をみると、僕は少なからず反省する。全力で子供をあやし、どうやったら赤ん坊が喜ぶか考え、徹底的に愛情を注ぐ。僕は自分の4歳と0歳の子供に対して、彼と同じように接しているだろうか?また、彼は僕にこうも言う。子供は多ければ多い程良いじゃないか。絶対に3人目の子供を作った方が良いよ。経済的な苦境?また子供が産まれたらそんな問題はすっかり忘れてしまうよ。なぜなら、こんなにスウィートで素晴らしい子供という存在は、なにものにも代え難い幸せじゃないか?

彼はきっと、彼にとって当たり前の事を言っているのだと思うけれど、なんだかとても、新鮮な言葉に聞こえた。そう、子供は本当にスウィートで幸せな存在。僕は頭で考える前に、心から我が子と共に生きるその幸せを感じ、その事を受け入れているのだろうか?もしそれが出来ていなければ、人間として生き物としてたいそう不幸な事かもしれない。

都会では合理的に生きるように、誰かに促される。誰かとはどこかで高笑いしている黒幕の事ではなく、良く知っているあなたであり、良く知らないあなたであり、あなたにとって僕であり、僕以外の多くの人達とも言える。都市化された多くの場所では効率的に仕事をこなす人間が評価され、さもなければ資本家と経営者のみならず、立場を同じくする労働者からすら疎まれる。リスクとリターンで全てを語り、歩けば英会話を聞け、立ち止まれば実用書を読め、自らがグーグルとなれ、気も狂わんばかりに合理性を推薦する経済学者の、どれも同じような本が、馬鹿みたいに売れる都会では、一方で、電車が遅れたら駅員を殴り、子供の嬌声が聞こえたら癇癪が起きる。合理性に魅了され、ついつい甘美な最短距離を窺おうとする僕を含め、非合理を許容できないヤワな生き物に成り下がったのかもしれない。近いうちに雀の涙のような子ども手当すら廃止され、放射能汚染で若い夫婦は子供を産むのをためらい、少子化はいつまで経っても改善されないだろうと思う。改善されないその理由の大きな一つは、子育て支援の充実の前に子供のような非合理な存在に魅力を感じさせない都市化そのものではなかろうか、と思う。

賢く効率的に生きようとすればするほど、皆で必死に作り上げる巨大なシステムの保守に、きっと都合が良いことだろう。甘美な最大効率とシステムへの奉仕、でもその先に、
共に黄昏れて行く世界が待ち受ける、そんな気がしてならないんだけど。